イラク旅行記

Turkey(by kmさん)

イラク
もう5回目、大好きなトルコ。今回はアゼルバイジャン国境(飛び地ナヒチェバン)からIgdir、Ardahanなどマイナーな県を通ってグルジア国境に抜けた。国境からIgdirの町までは、大アララット・小アララット(トルコ語ではアール・ダー)の両山をはじめ美しい景色が望めるが、私がそのあたりで取った写真はトルコ人兵士にすべて消去させられた。敵国アルメニア国境と接しているので緊迫しているのだ。「トルコがクルド人らを使って2度にわたり150万人以上のアルメニア人を殺戮した」、というのがアルメニア側の主張、トルコはそれを認め謝罪することはないので、両国間に国交はなく、陸路国境も閉じられたままだ。アルメニア人大虐殺については2年前くらいに日本でも上映された映画Araratなどを参照。アララット山とその周辺地域がアルメニア人にとっていかに特別なものかよく分かります。トルコ側にしてみればロシアの手先だったアルメニア。虐殺があったのは間違いないだろうが、その規模については必ずしも明らかでない。欧米・アルメニアに政治的に利用・誇張されているようにも見える点ではXX大虐殺と状況がよく似ている。ダゲスタン(ロシア内のトルコ系共和国でイスラム教)の女は結婚式に参加するためIgdirで降りていった。ダゲスタン女が降りてしまうと、彼女とロシア人ヒッチハイカーDinaのコンビの連携によるトルコ語→ロシア語→英語の会話は成り立たなくなり、乗り合いタクシーは静かになった。私は10年前の西アジア横断の旅で見たイサクパシャサライがもう一度見たくて、Dinaを誘って、Igdirからわざわざイラン国境付近のドゥバヤジットまで行って宿泊。ここは完全なクルド地区。トルコ軍の戦車が自国民であるクルド人を威嚇すべく砲身を向けてずらっと並んでいる。結婚式を見学したが、イラクのクルドのものと違って、男女が交互に手をつなぐことはなく、服装もより現代的だったのが印象的。翌日は20世紀初頭まではアルメニア人だらけだったKars県にドルムシュとバスを乗り継ぎ移動。オランダ人女2人と私を除き、チェックポイントでバスの全員はIDを回収されていた。クルド活動家などの有無を調べてから返却されるまで待たされる。事実上独立国となったイラクのクルドに触発されてか、今年に入ってからトルコのクルド人の独立・自治確立運動も盛り上がっておりテロも活発なのだ。トルコクルドはとても抑圧されている。クルド語による教育は未だ禁止されているし、イランやイラクのクルドと違いだぶだぶのクルドズボンを着ている人も少ない。ケマルアタチュルク(近代トルコ建国の父)の肖像を店に掲げることを強制されているが、店員がウインクしながらXXXXとそこにはクルド政党のリーダーが描かれていた。Kars県のアニ遺跡はよくアルメニアの遺跡といわれるが、トルコ政府が設営した解説ボードにはアルメニアの一文字すらなかった。実際アルメニア時代の町や教会が中心の遺跡なのだが、この地を征服していったペルシャ、ビザンチン、アラブ、モンゴル、トルコ(セルジュク・オスマン)、グルジア、ロシア時代の遺跡も一部敷地内に残っている。「アルメニアの遺跡」と言い切ることも、「アルメニアの遺跡でない」ということも不正確なのだ。中立的な立場で歴史を見るよう心がけたい。川の対岸はアルメニア領だが橋は破壊され陸路は閉鎖されたまま。美しいアラブ城があるアルダハンで宿泊。ここまでくるとクルド人はほとんどいなくなり、トルコ人ばかりだ。ardahanからグルジア経由でアゼルバイジャンへ向かうアゼリーがいっぱい。朝からいろいろな人に何杯もお茶をご馳走になり腹がだぶだぶになる。トルコの田舎を旅するといつもこうだ。Ardahanから直接グルジアに入国することもできるのだが、グルジア内のAjaria自治共和国の様子が見たくてわざわざ山越えし、Artvin県で黒海沿岸のHopa経由でグルジアへ。(以上2006年訪問時、メルマガより抜粋)
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  • Istanbul, Ankara, Kappadokia, Antakuya, Dugbayajit(sp?), Erzurum, Van, Tatvan, Diyarbakir, Bodorum, Silopi

    【旅行時期】1992/07/~1992/08/
    【エリア】トルコ
    【テーマ】
    【投稿者】km

    Kiritimati(Kiribati)(by kmさん)

    イラク
    Hawaiiは乗継のみ。乗り継いで行く先は、キリバス国のクリスマス島。クリスマス島には飛行機が週一便しか就航していないので、最短でも7日間滞在することになる。

    *キリバスの3諸島
    キリバス国の「本土」ギルバート諸島についてはキリバス編ご参照。キリバスにはギルバート諸島、フェニックス諸島、ライン諸島の3つがあるが、人口の大半はギルバート諸島に集中している。クリスマス島はライン諸島のメインの島。世界最大の環礁であり、この島ひとつの面積がキリバス国全体の面積の約50%を占める。フェニックス諸島は、長距離飛行が技術的に困難だった一昔前は太平洋路線の飛行機が燃料補給のため頻繁に離着陸していたらしいが、今では公務員とその家族がわずかに暮らしているのみ。

    *クリスマスの地名
    ロンドン、パリ、ポーランド、これらを飛行機を使わずして一日で周遊する方法があります。それは南太平洋クリスマス島に行くこと。クリスマス島の地名にはとても変わったものが多く、そのルーツを調べるのが楽しい。聞く人によって答えが違うことがあったが、ガイドブックとs氏(高校教諭)の話を総合するとこんな感じ:一番初めに島の端にパリという名前をつけたのは、フランス人。彼は、もともと南太平洋のどこかの島で宣教師をしていたが、現地女性を娶ってよいかなどをめぐりフィジーのビショップと不仲になり、事実上破門に追い込まれた。元宣教師はフランスに帰国する代わりに、当時無人に近かったクリスマス島で椰子のプランテーションを始め、母国をしのんでパリと呼ぶようになった。南太平洋のパリはいったいどんな感じだろうと興味津々でたずねると、単なる無人のビーチで、「パリ」を感じさせるものはどこにもなかった。地元の人がたまにピクニックに来るらしく、ゴミが散らばっているだけ。
    現在プランテーションがあるところは「ポーランド」と呼ばれている。これは、そのフランス人の甥がポーランド人だったとか、労働者の一人がポーランドから来ていたことに由来するという。コプラが島の重要な産業だったころ、ポーランドは人口も多く、栄えていたようだが、コプラ価格が低迷している今は活気のない集落になっていた。「昔の光今いずこ」的なこの集落で、唯一開いていたキオスクには皮肉な看板がついていた。[Forever and Ever](ずっとずっと永遠に)・・・
    環礁の一部に切れ目があって、外海と接している。これをドーバー海峡と見立てたのだろうか、後にクリスマス島を手中に収めたイギリスは、パリの対岸をロンドンと名づけた。ヨーロッパ人は世界各国の植民地に故郷の町の名前を冠しているが、ヨーロッパの大都市とはイメージが180度異なるような南太平洋の離島にまで「パリ」だの「ロンドン」と名付ける・・・これがヨーロッパのセンスオブヒューモアということだろうか。
    他にも、現在一番人口の多い集落の名前(   )がキリバス人の信仰する海の神様(西洋社会のポセイドン)の名前だったり、
    環礁は土地がやせていてバナナの栽培には適していないのにバナナ村という地名があったりして興味深い。
    なお、キリバス語の語音は非常に少ないのでLやDはなく、近い音で代用している。例えば、Christmasクリスマスは現地語表記でkiritimatiキリスィマスイ、LondonロンドンもRontonロントンとなります。

    *ふたつのクリスマス島
    今回行ったのは太平洋のキリバス国領のクリスマス島(現地語読みではキリスィマスィ島)。赤蟹の大移動でおなじみのインド洋の豪領クリスマス島と紛らわしいが、まったく別。国際郵便でも時々混乱があるようで、空港であったオーストラリア人と思われる女性が嘆いていた。「ここクリスマスで受け取るはずの荷物(某国際宅急便)が豪領クリスマス島に運ばれてしまって、転送の手続きをしてもらってるところなの」。逆パターンもあるようで、前年に豪領クリスマス島に行ったときガイドさんがこう言っていた。「(豪領クリスマスにいる)赤蟹を見に行こうとして、間違えてキリバスのクリスマス島に行ってしまったお客さんがいるんですよ」。どちらもお勧めの島なので、間違って行ってしまっても楽しめると思うが。

    *世界最大の環礁
    クリスマス島は世界最大の環礁Atoll。ミルキーグリーンの海、この海の美しさは、私の記憶の中で最も美しかったニューカレドニアの海を越えてしまったかもしれない。特に、地元の人が「ミツビシがホテルを立てる予定だった」といっていたパリとポーランド村の間の海の色には心が揺さぶられた。こんなビーチで見られるのは地元の漁師だけで観光客は皆無だった。

    *喉袋パンパンのグンカンドリ
    クリスマス島で1950年代から60年代に行われたイギリスの核実験の光は2500kmはなれたタラワでも見えたという。かつては鳥のパラダイスだったこの島では、実験の直後には鳥が大量に死んだ。これは核の毒性によるものではなく、核爆発の眩しさで目がやられて、飛行や捕食が自由にできなくなったためだと一応分析されている(英米政府の見解)。けれど、実験から約50年たった今、クリスマス島は再び鳥のパラダイスになっていた。グンカンドリはガラパゴスをはじめ世界各地で見たが、図鑑で見られるような真っ赤な風船(喉袋)をパンパンに膨らませたグンカンドリは見たことがなかった。それがここでは、当たり前のように目の前を飛んでいた。
    他の鳥の種類と数の多さにも圧倒された。天敵がほとんどいないので、警戒する必要がないのか、巣を作らずに枝や地面にじかに卵を産んでいる鳥もたくさんいた。

    *カニに食べられてしまった老人

    *企業家になったフランス人元牧師

    *JASDAの衛星追跡基地の跡は

    *衛星通信で株取引、さすらいのヨットマン

    *台湾vs中国 in Xmas
    中国人は世界中どこにでもいる。人口3000人のクリスマス島も例外ではない。世界各地の華人・華僑の圧倒的多数は、広東・福建・潮州・客家・海南のいずれかの「幇(パン)」に属しているという。ここクリスマス島では、広東系が強いようで、各商店にはフィジー製のものに混じって広東製の食べ物・飲料がたくさんおいてあった。毎日でも中華料理が食べたい私は早速中国人の店を探した。中国人は商品の流通を握るだけでなくたいていレストランを拠点(隠れ蓑?)にしているからだ。
    中にいた広東顔の人は英語を上手に話した。きくと、フィジー出身だという。観光客もほとんどいない(アメリカ人釣り客はいるが、彼らは食事込みのパッケージで来るので外食はしない)し、地元の人はこういうレストランには来ない。とするとこんなところに店を出しても、それだけで十分な売り上げを期待することはできない。案の定、昼時だというのに客は私だけ。けれど、実際には貿易でもうけているのでレストランに客が来なくても困らないのだ。とても「本業」でもうけているとは思えない中国人がアフリカの地方都市にまでいるというこの不思議な現象のからくりは、西アフリカのブルキナファソ第一回訪問時の香港人露天薬剤師に聞いたものだ(→ブルキナの頁*移動する中国人貿易商「西アフリカ支店」)。 
    広東系フィジー人が台所に引っ込んだあと、メニューを見ながらxxxxと衝撃的な事実が浮かび上がってきた。この広東人の奥さんはなんとxxxxの実の娘だというのだ。これは非常にスキャンダラスだ。なぜなら、キリバスは台湾を承認する数少ない国のひとつで、台湾からは巨額の援助を受けているからだ。島のパトカーや学校にも「Love From Taiwan」のロゴが入ったパトカーやトラックがたくさんあったのを見た。これだけ台湾に頼っている国のxxxの娘が台湾の宿敵中国系と結婚(政略結婚)しているとしたら大事ではないか。(略)

    *世界一早い朝日
    「ミレニアム・ポストカードあります」もう2007年、2001年から6年もたつというのに、ロンドン村には、21世紀で一番早い日の出を見るためにやってきた観光客を当て込んで用意したと思われる看板がいつまでもかかっている。クリスマス島のあるライン諸島はハワイとほぼ同緯度。1995年までは、ハワイ同様の時間帯に属していた(GMT-10)。首都のあるギルバート諸島は日付変更線の西側(GMT+12)なのに、クリスマスのあるライン諸島は日付変更線の東側(GMT-10)だったわけだ。これが不便ということで ミレニアムを前に日付変更線をぐぐぐぐっと東に迂回させライン諸島を日付変更線の西側にもって来た結果、ハワイ(GMT-10)とクリスマス(GMT+14)は時差がないにもかかわらず日付が一日違うということになった(+14--10=24)。GMT+14と言う地域はほかにないのでライン諸島は世界で一番早く朝を迎える地域と言われることになった。ところで、「世界一早い日の出」チャンピオンには物言いがついている。先日訪問したNZのチャタム島でも世界一はやい日の出を主張したのだ。これは地軸が傾いているため、緯度の高い地域では夏場の日が長くなることと関係している。この現象を突き詰めていくと、そもそも南極は夏の間(とくに年末年始)南極は白夜なのだから夜中の1200にはもう日が上っている、とすると世界一早い日の出を見られるのはチャタムもクリスマスもなく、南極だと思うのだがそうは考えないのだろうか。キリバス名誉領事館で出版しているガイドブックによれば、イギリスのグリニッジ天文台がキリバスのミレニアム島が世界一早いと認定したらしい。おかげでこのあたりでは「世界一早く日の出を望む図書館」とか「世界一」という枕詞が濫用されている。
    なおサモアのサバイ島は日付変更線のすぐ東、GMT-12なので、世界最後の沈む夕日を見ることができる(冬場で、極点に近い地域のほうが日が沈むのはもっと遅いはずだが、一応そういわれている)。

    *タラワークリスマスの便
    クリスマス島は、首都のあるギルバート諸島タラワとは2500kmも離れている。船はクリスマスまで行くものがあったが3ヶ月にいっぺん程度しかなく、急ぎのキリバス人や時間のない旅行者が利用するには難しいものだった。
    では空の便はどうか。2003年に首都のあるタラワに行ったときにクリスマスにいく飛行機を探したが、この区間を結ぶ空の便は当の昔に廃止になっていてクリスマスにはたどり着けなかった。当時飛行機でタラワからクリスマスに行くのには
    1 Tarawa-Suva(ナウル航空)週2便
    2 Suva−Nandi (Air Pacificなど)
    3 Nandi-Honolulu (Air Pacificなど)
    4 Honolulu-Christmas( )週1便
    と、3回の乗り継ぎ、しかも外国を2回も経由しなければならないのだった。クリスマス島は非常に隔離された島だったのだ。キリバス人にとって大変なのは飛行機運賃や乗換えの手間暇だけではなかった。クリスマス島民が首都に向かうには、アメリカのビザがさらに必要だからだ。アメリカという国は、乗り継ぎ客をも無理やり審査して入国させる。単なる乗り継ぎなのに入国ビザを取っていく必要があるのだ。けれどアメリカのビザはキリバス人にはなかなか下りない。まずキリバスにはアメリカの大使館領事館がないのでフィジーのSuvaに行かなければならない。大使館に行けば当然ビザが発給されるわけではなく、銀行の残高証明書や身元保証人を要求されたり、発給までの間フィジーでずっと待たされたりするのだ。これではギルバート諸島にいる親の死に目にも間に合わない。

    つい最近FJがFijiのNandiからクリスマスに直行便を飛ばすようになった。そしてFJはNandiからTarawaにも直行便を飛ばすようになっていた。(ナウル航空はどうなったのだろう?)これにより、クリスマス島民はNandiでの乗り換え一回でタラワにいけるようになりアクセスが大幅に改善された。なんでもFJのキリバス線は、キリバス政府のチャーターで、その資金は外国政府からの援助らしい。クリスマス島がハワイだけでなくFijiと結ばれたことで、アメリカ方面だけでなくオーストラリアニュージーランド方面からの観光客の来訪を期待できるようになったそうだが、私が搭乗した飛行機は若干の米人釣り客を除いてがらがらだった。

    *Tの弟を探して
    電話局からギルバート諸島タラワのTに電話をした。Tとであったのは2004年。タラワに到着した私はそこからクリスマス島に行こうと飛行機を探していた。実際にはそのクリスマス行きの飛行機便がとっくの昔に就航を中止しているので見つかるはずもなかった。どうしたものかと考えあぐねていたそのときちょうど前にで切符を買っていた人がT。「この飛行機はどこへ行くの?」とたずねたところ、T「マイアナだよ。」、(km)「それはどんな島なの?」...ちょうど里帰りするという彼が島に連れて行ってくれることになったのだった。3年半の時がたち、ようやく私はクリスマス島にたどり着くことができた。クリスマスに行くなら弟を紹介すると言っていたTと3年半ぶりに電話で話す。あの時撮った写真は帰国後すぐに送ったのに、彼のところには届いていないということ。キリバスの通信事情とはこんなものか。「弟は(クリスマス島の)バナナ村にいるんだ。尋ねてみてよ。」Tの弟Jは、20年前にギルバート諸島を捨て、この島にやってきた。以来ギルバートに里帰りをすることはなくコプラ採取にいそしんでいるという。根っからの開拓者だ。誰もが誰もを知っているクリスマス島でのこと。Tの弟は簡単に見つかるはずだった。ところが、弟探しは意外な展開を迎える・・・・

    *クリスマスに見るマネアバ(集会場)
    キリバス国のギルバート諸島はとても伝統的な社会だった。教会のマネアバとは別に、村ごとにマネアバ(集会場)があって、大事な事柄や紛争は長老たちがそこで議論・解決していた。離島の小さな村でもマネアバはとても立派で厳かに佇んでおり、その存在感は圧倒的だった。建物も草葺の伝統的なもので、きっとその葺き替え作業なんかを村人と共有・分担していくことで親睦や絆が深まっていることが想像できた。ところがクリスマス島は、主に英米の核実験後に新たな土地を求めてギルバート諸島からやってきた移民で成り立つ新しい社会。そういう意味でアメリカの西部みたいな開拓者精神の感じられるところかも。いや、実際には政府が主導で移民を進めたという点ではむしろ屯田兵に近いかもしれない。島で話した人も元公務員でこの島に赴任して、そのままこの島に居ついたという人が多かった。クリスマス島はギルバート諸島各地出身者の寄せ集め社会だといえる。こういう寄せ集めの社会でどういう現象が起きたかというと、村のマネアバがない。それぞれギルバート諸島の違う島々から来ているので、従来の社会や伝統を意識的に声高にしないようにしているのかも知れない。「xx島出身者」の派閥などで新しい社会が分裂してしまうことを恐れて自主規制しているのか、それとも政府が規制しているのかどちらかではないだろうか。
    個人レベルでは、この島で生まれた子供たちを除いては、個々人がギルバート諸島の「xx島」の出身、という意識を強く持っていて、クリスマス島への帰属意識というものが希薄なように思われました。「中央から派遣された公務員の多い官庁街」のロンドン村はもちろん、初期の入植者が築いたというxx村(名称失念)I(村が大きくなる後とに拡張していったのでxx村IIもある)でも事情は一緒でした。きっとアメリカ移民1世や北海道開拓移民1世も遠い故郷のアイデンティティを心に秘めたまま生涯を送ったのだろう。
    村のマネアバの代わりにあるのは教会が立てたマネアバ。人口比に対して教会の数はかなり多かった。各宗派立派なマネアバを建てて宗教行事のみならず地域行事に積極的に使える共用スペースにしていた。金属やコンクリートでできている集会場もあり、ギルバート諸島の伝統的なマネアバ建築に感銘を受けていた私としてはちょっと寂しい感じがした。

    * ポリネシアの12のミステリーアイランドのひとつ
    ・・・とガイドブックに出ていますが、どうしてミステリーなのでしょう。ポリネシア人が最初に渡来していながら定住しなかったから?そういう理由なら太平洋には他にも同じような島がたくさんあるはず。それにクリスマス以外の他の11のミステリーアイランドはどこなのかも気になる・・・。ガイドブック出すからには読者が当然抱くような疑問をあらかじめフォローしておいてくれたらいいのに。この点なにかご存知の方ご連絡ください。

    *陰鬱なホノルル
    日本から毎日10便を超える直行便があるハワイ。日本のハネムーナーや家族連れでいっぱいのワイキキビーチ。私にとってハワイのイメージは「日本語が通じる日本人のためのリゾート」だった。しかし今回日本からではなく、世界一周チケットでアメリカ本土から飛んできた私には日本を感じさせるものがどこにも見当らないように感じた。飛行機の中は白人とハワイ人、もしかしたら日系人という感じの人はいたけれど、日本人らしき人はいなかった。国内線ターミナル到着口の観光案内所の人は中国系で日本語を話せなかったし、日本語の観光パンフレットはまったくなかったのです。英語で書かれたパンフレットは、必ず日本軍が攻撃した史実を取り上げており、日本人の私が見るには忍びないものだった。半世紀前までアメリカ白人の多くにとって日本と日本人は「宣戦布告せずに、真珠湾を攻撃した卑怯、卑劣、残忍な敵」、そういう存在だった。イラク戦争開始時のサダムフセインとイラク人に対してアメリカ人の相当数が抱いていたイメージ(偏見)と同じだ。白人の老人たちの中にはそんな卑怯で残忍な日本のイメージを払拭できないままの人がいても不思議はない。英語パンフレットは表向きには中立に作られているけれど、そういった白人観光客の視点にも応えるように組まれているように感じた。
    空港を離れてホノルルに入れば日本人はたくさん目にしたが、むしろ驚いたのは白人の多さだった。そして彼らの中の相当数は、短期観光客ではなくロングステイ、または老後をここで過ごすための「(国内)移民」のようだった。私が泊まったYMCAは、日本人パッケージ旅行の人が泊まるような高級ホテルとはまったく趣をことにしていた。一階のカフェテリアは、長期滞在者・地元労働者御用達のベトナム系だった。朝からフォー(ベトナムうどん)を安く食べられます。ベトナム戦争時の南ベトナムから避難してきたベトナム人のコミュニティはハワイでも結構大きいようだ。YMCAには独り身の白人の老人が何人もいた。何人かに共通していたのは表情が沈んでいて、エレベータでであっても挨拶はもちろんにこりともしないこと。マクドナルドでコーヒーを飲みながら渋い顔で新聞を読んでいる一人の老人は、V(Veteran=退役軍人)のキャップを誇らしげにテーブルの上においていた。それはまるで「美しいハワイを攻撃した卑怯な日本軍を駆逐し、ここを守ったのは俺たちだぞ」と周囲に誇示するかのようだった。もしかしたらこのご老人は毎日マックで新聞を読むのが単に日課なのかもしれないけれど、老人は本当は誰か話し相手が欲しいのかもしれないと思った。
    ホノルルには、夕暮れ時のビーチでウクレレ弾きながら歌うポリネシア人なんていなくて、意固地で孤独そして陰鬱な白人が集まってきてしまうところなのかもしれない。それは訪問前に私が持っていた、豊かなアメリカのまぶしいリゾート地ハワイというイメージとはまったく合致しないものだった。
    独り身の白人たちがハワイにステイしているわけは離婚かもしれないし、死別かもしれない。理由は様々だろうが、他のポリネシア圏では見ることのなかった意外な光景を目にした気がしました。南太平洋、アジア、アフリカ、中近東、一般には貧しいといわれる国々や地域で見た多くの老人たちは、家族やコミュニティの中で尊敬され、ふるさとで生きていることに誇りを持っていた。私はそういう輝いているおじいちゃんおばあちゃんの笑顔を写真に撮るのが好きだ。けれどホノルルはそういうおじいちゃんおばあちゃんの写真を撮るにはあまり適したとちではないのかもしれない。アジアやアフリカの老人はたとえ貧しくても死に行くときに寂しくはないだろう。木陰やカフェでは必ず回りにだれか話し相手やバックギャモンの相手がいた。後進国に老人ホームがないのは、貧しいから施設を作る余裕がないというより、家族やコミュニティが機能しているから施設を作る必要がないということもいえると思う。もちろんハワイだって、ホノルルだけじゃないし、原住のポリネシア系の社会はきっとそうではない。私が見たのはハワイのごく一部であることはわかっているが、今回はハワイの意外な裏の表情を見てしまったようで、考えさせられた。

    【旅行時期】2007/02/~2007/02/
    【エリア】ハワイ
    【テーマ】
    【投稿者】km

    アメリカ旅行記(7):2月26日(1):ワシントンD.C.へ、国会議事堂、ホワイトハウス(by 旅人のくまさんさん)

    イラク
    <2006年2月25日(土):アメリカ時間>

     ワシントンDCの見学が、今回旅行のハイライトの1つとなりました。待合せのペンシルバニアホテルが6時半の約束でしたから、5時15分にはホテルを出発しました。早朝からの中身の濃い半日小旅行です。

    <早朝の出発、待ち合わせのホテルへ>
     昨日の内に、待合せ場所の下見をした結果、タクシーは呼ばずに現地まで歩くことにしました。その時間を30分と読みました。それで、途中で朝食をとることにし、マグドナルドのお店に入りました。店の中には、ここで夜を過ごしたらしい人達が何人かいました。注文したのは、ハンバーガーとホットコーヒーのスモールサイズです。
     セルフサービスの水がありませんでしたから、熱い思いをしました。太いストローで注意深くコーヒーを飲んだつもりでしたが、想像を超える熱さでした。余り熱くて、皆さんも、半分程は残されたようです。

    <電車でワシントンDCへ>
     待合せのペンシルバニアホテルには、時間少し前に到着しました。現地ガイドさんに6時45分発のチケットを入手して貰い、ここでお別れしました。ワシントンDCでは、別のガイドさんが出迎えてくれる手筈です。始発駅でしたから、最初は空いていました。ワシントンDC駅まで、約3時間の列車の旅です。途中からは、次第に満席になってきました。
     ワシントンDCの表記は、ワシントン州と区別するためです。DCはコロンブスに因む『The District of Columbia(コロンビア特別区)』の略です。
     入り組んだ海岸線か、湿地他のような場所を長く走って、終点駅に到着しました。終点駅の少し手前には、ワシントン空港駅がありました。

    <最初に国会議事堂見学>
     ワシントンDC駅では、ペンシルバニア駅でお別れしたガイドさんが教えてくれた場所に、案内のガイドさんが待っていてくれました。ツアー参加者は、私達3人を含めて7名でした。ワゴン車での見学です。最初の見学地の国会議事堂のことを、少し紹介しておきます。
     ウィリアム・ソーントンが設計し、1793年に着工、1800年11月に完工しました。その後、増改築が行われ、長さ250m、幅115m、部屋数540余りの規模となりました。上院は6年任期の100議席で、その1/3が2年ごとに改選されます。下院は、435議席が州の有権者数で配分され、任期は2年です。全員が改選され、2回に1回は大統領選と重なります。

    <ホワイトハウス>
     ホワイトハウスは、アメリカ合衆国の大統領とその家族が住む官邸です。転じて「アメリカ合衆国政府」のことを指す事もあります。その名前の由来から紹介します。現地ガイドさんも同じことを話されていました。
     ホワイトハウスは、米英戦争で1812年に被害に遭い、外部を残して焼失しました。その復興工事の際、一部を除く外壁が白く塗られ、ホワイトハウスと呼ばれるようになりました。
     その後、増改築が繰り返され、現在は4階建て132部屋あり、地下には核シェルター機能を持った作戦司令本部があります。屋上ではシークレットサービスの狙撃手が24時間待機しています。内部の見学コースもありましたが、9・11以降は、警備が厳しくなっているようです。
     9・11同時多発テロでは、ニューアーク発サンフランシスコ行ユナイテッド航空93便がハイジャックされ、ワシントンDCに15分の場所で墜落しました。ホワイトハウスが標的にされた可能性があります。政府は、公式には否定していますが、戦闘機に撃墜された可能性もあるようです。
     車の乗り入れが厳しく規制されていますので、少し離れた場所へ駐車しての見学でした。

    <リンカーン記念堂>
     第16代大統領エイブラハム・リンカーンを記念して、1922年に建てられた白亜のギリシャ神殿風の建物です。椅子に座った高さ5.7メートルのリンカーン像が据えられています。歴代大統領で、最も背が高かった人です。リンカーンは1863年、奴隷解放を宣言しました。民主主義の理念を貫きましたが、1865年に暗殺されました。
     像に向かって左側の壁には、ゲティスバーグで行った有名な演説、「人民の人民による人民のための政治」という名言が刻まれています。演説の最後に近い部分です。
    注意して見ないと、見落としますが、この場所で演説を行ったマ マルティン・ルーサー・キング牧師の『アイハブ ア ドリーム』の文字が石面に刻まれています。非暴力で黒人民権運動を指導した彼もまた、1968年暗殺されました。
     記念堂の前には、リフレクティング・プールと呼ばれる細長い池があります。高いワシントン塔の全長を、この池に映すことができます。

    <朝鮮戦争、戦没者碑>
     朝鮮戦争は、1950年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破したことに始まります。
     6月27日、国連安全保障理事会はソ連が中国政府認証問題に抗議して欠席中に、『北朝鮮弾劾決議』を採択、韓国を防衛するためアメリカ軍25万人を中心としてイギリス、オーストラリアなども加わった国連軍を結成しました。
     当初、劣勢だった国連軍は、9月15日、マッカーサー元帥が仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪還しました。10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破しました。更に、中国の周恩来首相の警告を無視し、10月9日、国連軍も38度線を超えて進撃しました。
     参戦には消極的だった中国も、北朝鮮の金日成主席の要請を受けて義勇軍を募って参戦しました。最前線だけで20万人規模、後方待機も含めますと100万人規模という大軍だったとされます。
     ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、400万の犠牲者が出たとされます。その後、戦況は38度線付近で膠着状態となりました。この碑は、アメリカを始めとする国連軍として参加した17カ国の戦没者を祀るものです。
     1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結しました。
     その後、2000年6月の南北首脳会談以降、停戦当初に比べれば融和の兆しが見えましたが、双方の和解は行われていません。未だに準戦時体制であり、国際法上の戦争は終結していません。同胞が争った戦争ですから、計り知れない傷の深さが残ってしまいました。

    <ペンタゴン>
     ペンタゴンの写真撮影は固く禁止されています。最近も、車を降りて写真撮影しようとしたアジア人が、すぐに連行されたと、ガイドさんが教えてくれました。その理由は、9・11同時多発テロにあります。その時のペンタゴンの状況から説明します。
     国防総省の本部は、五角形を意味する『ペンタゴン』で呼ばれる、5階建てで、各床に環状の廊下があります。この構造により、世界最大のオフィスビルでありながら、一番遠い所へも10分以内で移動できる構造になっています。1943年1月15日に完成しました。
     そのペンタゴンは、2001年9月11日、テロリストにハイジャックされた民間航空機が衝突し、一部が崩壊、炎上しました。その後、元の石材と同じものを使用して迅速な復旧がなされました。遠くから見ても石材の色が微妙に違っていますから、修復の痕が看て取れます。
     9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けました。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上し、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊しました。77便の乗客・乗員全員が死亡するとともに189人の国防総省職員も死亡しました。
     情報が錯綜し、最初の報道は炎上というだけでしたが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によって、航空機激突の目撃が証言されました。ボーイング757機の巨体は焼失していました。
     写真を撮ってはいけないといわれても、走行中の車の中からだと大丈夫だと思って、何枚か撮影しました。同じように、荒金さんや、井上さんも撮影されていました。

    <ショッピングモールでの昼食>
     ペンタゴンの前をノンストップで通り過ぎて、ショッピングモールに到着しました。マンハッタン地区に隣接する区域です。ここで、1時間半程の自由行動となりました。昼食とショッピングです。
     食事は、各国料理の店が並んでいましたから、その中から選ぶことができました。3人の意見が一致したのが、中国料理のお店でした。焼きそばか、炒飯をメインディシュに、仕切りが付いた皿に、好みで選んだ2種類のおかずを盛って貰いました。
     問題は飲み物です。後でガイドさんにお聞きした話ですが、酒類販売の免許の費用が高いので、殆どのお店が、ソフトドリンクだけだそうです。それでも、何とか販売しているお店を探し出し、ハイネッケンの缶ビールが入手できました。食事と飲み物合わせて、3人分で28ドルでした。
     食事の後は、私たち三人も、全員の待合せの時間まで、自由行動です。専門店も入った大型ショッピングモールでしたから、見所はたくさんありました。ニューヨークより税率が低いですから、買い物にも好適でした。

    <アーリントン国立墓地>
     昼食の後の見学は、アーリントンの国立墓地でした。ポトマック川岸、バージニア州側の小高い丘の上にあります。200エーカーという広大な墓地には、独立戦争やベトナム戦争等、アメリカのために命を犠牲にした兵士達など、約26万人が眠ります。
    1963年にテキサス州ダラスで遊説中に暗殺された35代大統領J.F.ケネディも、夫人、子供と共にこの墓地に眠っています。ここには、埋葬されてからの灯された炎が、静かに燃え続けています。
     靖国参拝問題で、国立追悼施設が話題に上がり、その折に引用される1つが、アーリントン国立墓地です。ワシントンを訪れた各国首脳は、例外なくこの墓地を訪れ、無名戦士の墓等に献花をされるようです。その墓地について、少し説明をしておきます。
     墓地への埋葬の費用は、すべて国費で賄われます。その際、どの宗教を選択するかは、生前の故人と、遺族の自由です。プロテスタント、カトリック、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教、無宗教でも構いません。
     アーリントン国立墓地は、1864年、南北戦争の戦死者を葬るために設置されました。その後、1921年3月4日、アメリカの議会は、第1次世界大戦で仆れたアメリカ兵士の葬儀を、アーリントン国立墓地の追悼場で行なうことを決議しました。これがアメリカでの国家規模における無名戦士の墓の発端となりました。
     その後、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の戦死者も葬られました。イラク戦争とその後の犠牲者で、今なおその数を増しているようです。

    <スミソニアン航空宇宙博物館>
     現地ガイドさんの一番のお勧めが、このスミソニアン航空宇宙博物館でした。ガイドブックにも、スミソニアンの各種施設でも1、2位を争うと紹介してありました。夏休みに入ると、特に混み合うようです。
     無料でしたが、入場する時には、保安検査がありました。見所を教えて貰った後で、ここで2時間以上の自由行動になりました。国立美術館も時間をかけて見学したかったので、早足の見学となりました。
     飛行機から音速ジェット機までの航空機の歴史的展示や、当時のソビエトと先陣を争った、人工衛星、有人宇宙飛行等の展示は、僅かの時間を惜しんで見学しました。月の石にも直に触れることができますし、大気圏突入の際に焦げ付いた船体、ソビエト連邦がロシアに代わっての、宇宙ドッキングの展示なども見応えがあります。

    <国立美術館>
     正式名称は『National Gallery of Art』です。世界でも5指に入るといわれる収蔵品を有しています。ダ・ヴィンチから、ピカソ、ウォーホールまで、13世紀から現代までのヨーロッパ、アメリカの膨大なコレクションが展示されています。
     この日、正面玄関は閉まっていましたが、西館からの入場ができました。スミソニアン本部に属していますから、他の博物館、美術館と同様に無料開放されています。フラッシュを焚かなければ、撮影も自由です。
     印象に残った作品の中で、エル・グレコについてだけ触れておきます。昨年(2005年)2月、彼の作品が多く収蔵されている、スペインのプラド美術館でも鑑賞することができました。大原美術館にも作品があります。
     グレコは、ギリシャ領のクレタ島出身の16世紀の画家です。本名はドメニコス・テオトコプーロスです。一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン語で『ギリシャ人』を意味する通称です。
     当時ベネチア共和国の支配下にあったクレタ島で、初めにイコンを学び、後にイタリアのベネチア、ローマに渡ってティツィアーノに師事し、ベネチア派絵画を学びました。1577年、36歳でスペインのトレドに渡り、没するまでスペインで宮廷画家として活躍しました。
     彼の画は、マニエリスム、バロック様式に分類されます。暗い画面、縦に長い構図、複雑なポーズの人体などが特徴です。死後、長らく評価されませんでしたが、19世紀に再評価を受け、ピカソ等、20世紀の芸術家にも影響を与えたとされます。収蔵品は、写真編の方でご覧ください。

    <食料を買い込んで、帰路に>
     ニューヨークへの戻りの列車は、5時過ぎでした。それで、駅構内のお店で軽食を買い込んで、車中で夕食代わりにすることにしました。リカーショップもありましたから、缶ビールと、ねじ式の小瓶のワインも買い求めました。初日に比べると、1/10程の費用の夕食になりました。
     翌朝はラスベガスへの移動日ですから、ホテルへ戻って解散となりました。ホテルのバーで水割りを飲んで、この日は少し早く就寝しました。


      リンカーン記念堂で
     人民の言の葉三度繰返し歴史を語る白亜の座像

      アーリントン国立墓地で
     永遠の炎は静に燃続けテロの愚さ諭すが如し

      航空宇宙博物館で
     月面に着陸したるその昔心踊し石に触おり

      国立美術館で
     エル・グレコ展示の部屋に人影の少く吾を忘れて見入る

    【旅行時期】2006/02/23~2006/03/02
    【エリア】ワシントンD.C.
    【テーマ】
    【投稿者】旅人のくまさん

    BUS TOUR IN TURKEY (by moritofさん)

    イラク
    2009年1/11-1/18の間、Aefoflot(導入されたばかりの最新のAirBus社製:A-330-200)便でMOSCOW経由ISTANBUL, トルコ周遊バス(Benz社製)ツアー(6泊8日)に参加しました。

    表紙は、イスタンブルのエジプシャンバザールを見学中に、ちょうど昼前のお祈り時間になり、通路に男ばかり100人位が並んで、メッカの方向に向かってお祈りをしている写真です。買い物客は近寄りがたく、売り子のほとんどは、ちょっと避けて通るような雰囲気でした。

    結局、トルコの西半分の地域を、長時間バスで移動したのですが、ずっと続くオリーブ畑、果樹園や小麦畑は言うまでもなく、沿道のあちこちで羊の放牧風景を目にし、牛肉より羊肉が高級なこと、子羊の毛皮の高級ブランドのドレスやジャケットが作られていることを教わりました。ほぼ最終行程の、アンカラ〜イスタンブルは、アンカラエクスプレスの1等寝台にも乗ることができました。広軌ですが、列車が古くて震動が相当あると聞いていたのですが、それほどでもなく、旅の疲れもあって、ぐっすりと眠れました。また、ダイニングカーでの朝食は気分よく、約30年ぶりの寝台列車ライフを堪能しました。

    とにかく、トルコについて、新たな発見や、教えられること、再認識することが沢山ありました。カイセリ国立大学日本語科出身のガイドが、100%自給自足している豊かな国土と自慢するだけあって、前述のように、オリーブ、オレンジ、ブドウ、イチゴなどの果樹、小麦畑、羊や牛の放牧が至る所で目につきました。添乗員、現地ガイド付きバスツアーで、参加者35名の多くは同世代あるいはさらに高齢でしたが、旅慣れた人が多く、むしろ元気をもらい、勉強することが多い、実りあるものとなりました。インターネットは2か所のホテルで利用し、イスタンブルでは、無料でしたが、旧式の上、日本語が入ってなくて、英語のメール部分しか判読できませんでした。アイワルクのホテルでは、15分/5トルコリラ(300円程度)で、キエフの友人や日本にメールで連絡できました。オフシーズンの寒い冬、出会うのは同様な日本人ツアー客がほとんどで、価格が高いコースは、飛行機やホテルのクラスがグレイドアップしただけで、廻るコースもほぼ同じようなものということでした。でも、先週降った雪が残っており、カッパドギアの奇景、スケールの大きいエフェスの遺跡、ハマムなど味わえ、天候にも恵まれて、ラッキーな旅となりました。ある同行者はトルコが大好きになったと感想を漏らしてくれました。トルコの田舎はお勧めですし、春〜夏の時期に、緑の田園、花咲く光景、たわわに実った果物などをもう一度見たくなっています。

    トルコには親日家が多く、最近ではワールドカップサッカーの際、トルコvs韓国戦に、3万5千人の日本人が応援に駆けつけ、トルコの国旗-新月旗を打ち振って応援し、トルコが第3位になったことがありました。また、イラク戦争が始まった時、JALなどは飛べず、アメリカをはじめ、欧米諸国からも見捨てられて、現地日本人らは途方に暮れていた時、まさにバクダット空爆直前に、250名もの日本人全員がトルコ航空によって救出されたことなどの逸話もあるように、大変友好的でした。

    イスラム教に対する親近感の欠如、貧しいとか遅れている報道が多い日本では、中近東あたりのニュースは欧米側に偏っていることもあって、真相はこの目で確かめる必要があるようです。

    【旅行時期】2009/01/11~2009/01/18
    【エリア】トルコ
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】moritof

    トルコ旅行記(3):3月31日:ドバイ・ドバイ空港でのトランジット、イスタンブールへ(by 旅人のくまさんさん)

    イラク
     昨晩、セントレア空港を飛立ったのは、定刻である23時前でした。予想がつかない飛行経路でしたが、日本列島を南下したあと、中国本土の上空を通過しました。大陸上空に入ったのは、上海より南の香港辺りだったようです。
     その後、中国からインドシナ半島を横切って、インド北部の上空に達しました。インド上空を過ぎてからはアラビア海に入ったようです。その前に、インドシナ半島上空を過ぎた後は、インドの東に位置するベンガル湾上空を飛んだようですが、夢の中でした。セントレアを飛立って、約11時間の夜間飛行でした。
     ところで、最新の航空機の内部照明は、心理・生理面から時差対策がなされているようです。単に明るくしたり暗くしたりで、夜や明け方を演出するのではなく、通路の上部には星空を思わせる照明もありました。

    <ドバイ到着、10時間のトランジット>
     出発10日前ほどに旅行計画書を受取って。気掛かりだったのが、ドバイでのトランジットの際の、10時間待ちでした。旅行会社からは「ドバイ空港での出入国は事故防止のために控えてください」とお聞きしていたこともあったからです。
     ドバイ空港は拡張工事の最中でした。エプロン工事がされていましたので、ほとんどの航空機が車載のタラップを横付けにして、バスでの移動のようでした。到着したのは、4時45分くらいの定刻でした。「最初の停留所では入国の皆さんが、二番目の停留所では、トランジットの皆さんが利用してください」との車内アナウンスがありました。
     バスを降りて、出発ロビーに入る手前でセキュリティチェックがありました。歯磨きなどは、予め透明の別の袋に入れておきました。

    <オーストラリアのニコラスさんと>
     ドバイ空港での長いトランジットでしたが、レストランでオーストラリア人のニコラスさんと隣席になってからは、あっという間に時間が過ぎました。その話を紹介しておきます。たまたま、ニコラスさんの横の席が空いたのがきっかけでした。
     私が日本人と分かると、すぐに日本語の単語を交えて話しかけてきました。かつて、お母さんの仕事の関係で、東京と札幌などを12日間旅行されたことが、日本人を見て話しかけたくなった理由のようでした。私も、かつてシドニーからメルボルンを旅行した事がありましたから、そのことだけでも話が弾みました。
     水泳のイアンソープ選手が引退した裏話、この後の首相選挙、食べ物や飲み物の話など、色々と話が飛びました。イアンソープ選手のことは、日本のマスコミにも載っていないようでしたが、微妙な話ですから、この小冊子に収録するのは控えておきます。この話になったのは、メルボルンで世界水泳大会が開かれていたことがきっかけでした。
     12年間続いたハワードヒューズ政権には、「国民が飽き飽きして、フレッシュな首相を望んでいる」と、自分の意見を交えて説明してくれました。「オーストラリアにとって一番気掛かりなことが、アメリカのブッシュ大統領の言いなりになって、イラン・イラク問題など、中東問題にのめり込み過ぎ」といった意見も披露してくれました。
     現在、メルボルン近郊の小さな町に住んでいて、今回の旅行は、シンガポール経由でアフリカ旅行と教えてくれました。アフリカはケニアを始めとする4カ国を回りたいとも話されました。シンガポールからドバイまでは7時間かかったそうですが、私が名古屋のセントレア空港から11時間かかったと説明しましたら、何度か聞き直しては、「そんなにかかったのか?」と、同情してもらいました。
     旅行情報の中では、「エアーズロックはアボリジニの聖地ですが、日本からの旅行者には、時間がかかる割には感激が薄く、お勧めできません。それよりは、ケアンズの近くのグレートバリアリーフが一番!」と力を籠めて勧めてくれました。
     「シンガポールは大都会で、私は好きではありません。それよりはマレーシアの方が、自然が残っていて好きです」と、インドシナ半島の国の話もしてくれました。話が弾んで、お互いに3杯目のお代りとなりました。私は生ビール2杯と、後は缶ビールになりました。生ビールが売切れてしまったためです。彼は、2杯目からはオーストラリア産の発泡ワインのような飲み物でした。サイダーに似た泡と色合いでした。
    私のフライトは午後でしたが、ニコラスさんは、彼の出発ギリギリの時間まで付き合ってくれました。インターネットを扱っているということで、彼のEメールアドレスをメモして頂き、私のホームページの名刺をお渡しして、お互いの旅の安全とエンジョイを祈って、お別れしました。

    <ドバイ出発、イスタンブールへ>
     ドバイ空港での昼食の話です。出発前にインターネットで調べておいたことですが、長時間のトランジットの場合には、エミレーツ航空系列店のラウンジが使用できるという内容でした。その情報を紹介します。
     「マルハバ・ラウンジは伝統的なアラビアン・スタイル。トランジットおよびご出発のお客様のために用意しています。ご出発までのひとときを快適にお過ごしください。マルハバ・ラウンジはターミナルのブルー(東)セクションの突き当たり、25番ゲートの近くにあり、クラスに関係なくすべてのお客様にご利用いただけます」
     朝早い時間にマルハバ・ラウンジに立ち寄りましたが、「ブッキングしていないから、ラウンジの使用は駄目」と言う回答でした。それで、別のレストランに入り、ニコラスさんと盛り上がる結果となりました。
     今度は昼食のレストラン探しの時に、あるお店の前に「エミレーツ航空を利用の方で、4時間以上の滞在をされる方は、無料で食事サービスをします」との英文看板を見つけました。それで、搭乗券を見せましたら、その案内看板の通り、無料でのバイキング方式のランチサービスがありました。ランチの利用時間帯は、12時から15時と記されていました。
     そのお店で昼食を摂った後も、少し時間が余りましたので、免税店で飲み物を探しました。セントレア空港でオールドパーを買い求める時に、ドバイ乗継の状況を店員さんにお聞きしたら、「没収される可能性がありますから、ここで買うより、ドバイ空港の方が確実です」と親切にアドバイスしてくれていました。オールドパーはありませんでしたから、ジョニ黒にしました。随分長く待ちましたが、定刻でのドバイ出発となりました。

    <イスタンブールへの航路>
     セントレア空港のエミレーツ航空カウンタでのチェックインの時、ドバイ空港までは通路側の席が注文できました。しかし、ドバイからは窓側の席か取れませんでした。しかし、3席続きの2席も空席でしたから、結果としては、自由に3席を使用することができました。
     明るい時間帯での飛行でしたから、窓際からの景色も楽しむことができました。座席の前のフライトサービスの画面と合わせ、ドバイからイスタンブールまでの航路を確認しながらの搭乗でした。
     その飛行経路を簡単に紹介しておきます。ドバイを飛立った後は、ペルシャ湾を北西に向かって飛び、カタール国とバーレーン国の沖合を過ぎました。陸上に入ったのは、ペルシャ湾が尽きる手前、サウジアラビアです。ここからは暫くイラクとの国境近く、緩衝地帯を飛行しました。サウジアラビアを過ぎると、ヨルダンからシリアの上空を経て地中海上空に達しました。細かく進路を変えて、イラクと、レバノン上空は通過しなかったようです。
     地中海に入った後は、キプロスの東の端を掠めてからトルコの上空に入りました。そのトルコを西方面へ斜めに飛んで、イスタンブールのアタチュルク国際空港へ降り立ちました。
     写真編には、上空から見たその一部を収録しておきましたが、面白い光景にも出会いました。その一つが、ドバイ沖です。大掛かりな人口の島でも作っているような不思議な幾何学模様でした。また、サウジアラビアの内陸部では円形の貯水池のような施設が無数に見えました。淡水化事業関連施設なのかどうか、詳しくは分かりませんでした。

    <イスタンブールへ到着、全員集合>
     旅行計画書に記載された時刻から逆算したフライト時間です。ドバイからイスタンブールまでが3時間15分、その戻りが5時間15分でした。いずれも現地時間で記載してあるはずですから、時差が1時間と仮定しますと、往復とも4時間15分のフライトとなります。
     ほぼ定刻に出発し、イスタンブールに到着しました。空港で出迎えてくれたのは、トルコ人の現地ガイド兼添乗員のスワウィさんでした。ここで、はじめて16名全員が勢揃いしました。

    <ホテルへ、早速外出>
     旅行計画書には、この日の夕食は記載されていませんでしたから、予めその準備をしていました。ドバイ空港のエミレーツのレストランで昼食を済ませていましたから、機内食が余分だったためです。機内では飲み物だけにして、持ち帰りが出来るものをリュックに入れて置きました。パンとバター、それにクッキーです。
     後でお聞きしたお話では、食事をせずにそのまま就寝された方がほとんどだったようです。私は機内から持ち帰った食べ物と、ドバイ空港で買ってきたジョニ黒で、無事の到着を祝って一人で乾杯をした後、外出することにしました。
     外出と言っても、ホテルの近くだけの散策です。人通りはほとんどありませんでしたが、治安が悪そうな雰囲気ではありませんでした。開いているお店は、小さなコンビに等でした。路面電車が走っている表通りと、坂を下ってロータリーがある広い交差点付近までを散策しました。


      ドバイ空港で
     旅人に国境は無したまさかに出逢いし人と語らう酒場

      機内で
     戦乱の未だ収まらぬ中東に砂漠見下ろす空の碧濃し

      イスタンブールに着いて
     欧州は東に果てて小アジア海峡抱く街に今立つ

    【旅行時期】2007/03/30~2007/04/05
    【エリア】イスタンブール
    【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
    【投稿者】旅人のくまさん

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